天正9年8月下旬、伊東義祐に仕える山伏である三部は、大峯山に登った帰り、
羽柴秀吉が姫路城を建築し、大層な普請であるとの風聞を聞いて、立ち寄って見物した。
するとここで、一人の武士が三部を見て話しかけてきた。
「客僧は何国の人ですか?」
「九州日向の者です。」
「であれば、貴方に訪ねたいことが有ります。」
この武士はそう言って、三部を座に招き、聞いた。
「日向では伊東殿が浪人されたと聞いていますが、本当でしょうか?」
「はい。島津家に国を奪われ、今は伊予国河野家の領内に蟄居しています。」
「日向伊東家のイトウの”トウ”は、藤の字を用いるのでしょうか?」
「いいえ、”東”の字を用います。」
「であれば! 正しく私と同族ではないか!
もし義祐殿が羽柴殿に仕える気があるのなら、私が宜しく周旋しよう。
私は伊東掃部助と言う者です。
貴方は急ぎ帰国して、この事を告げてほしい。」
これを聞いて三部は、彼に篤く謝礼を述べ、急ぎ伊予に下り有りの儘に申し述べた。
しかし伊東家の人々は、数年の間、住み慣れた所を出ること名残惜しく、
また自分たちを受け入れてくれた大内氏の情けも捨てがたく、
さらに女性たちは、三部のためにこの上さらに憂き目を見るのかと嘆いたため、
決断は先延ばしにされた。
その内に年も暮れ、天正10年正月、伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳となった。
三部はその間もしきりに秀吉に見参することを進めていたが、終にその言葉に同意し、
伊東義祐父子、並びに奥方、川崎駿河守ら上下二十余名は、
名残を惜しみながら道後の城下を離れ、
小舟一艘に乗り込み播磨国姫路に渡った。
姫路では三部の案内にて伊東掃部助と対面し、掃部助は懇ろに義祐父子を饗し、
秀吉に対してしきりにこれを推挙したが、秀吉は、
「今、蔵米も払底している有様である! こんな時に浪人など扶持できるか!」
そう拒絶された。
そこで掃部助も、ここは暫く様子を見ることにした。
そして伊東祐兵がよろず武芸に達し容貌も魁偉なのを見て、掃部助は工夫し、
秀吉が城外に出る時を見計らい、路の側に平伏させておいた。
案の定、秀吉は祐兵を一目見て、側の者達に聞いた。
「あいつは何者か?」
そこに掃部助が後ろから出て申し上げた。
「彼は前に申し上げた、日向の伊東です。」
「なるほど、骨柄たくましい壮士である。
私が西国征伐を行う初めに、西国の武士が頼ってくるのは吉端であろう。」
そういって即座に三十石を与えた。
掃部助は、伊東義祐にも、秀吉に見参するようにと勧めたが、義祐は、
「私は不肖なりといえども。
辱くも三位の位を頂き、年齢も既に70。
今浪人の身とは言いながら、
何の面目あって木下藤吉ごときに追従しようと言うのだ。
しかし子孫再興のためであるから、祐兵は格別である。」
そう言って、ついにそれを受け入れようとはしなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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