徳川家康は、関ヶ原で勝利すると、
16日には佐和山を攻め落とし、明日は大津に出る、という時に、
田中久兵衛吉政が申し出た。
「私は先日、関東にて、必ず石田三成の首を取ると申しましたが、
その甲斐もなく落ち延びさせたこと無念に思っています。
そこでお暇を賜り、近江は我が生国ですから、草を分けても三成を探し出し、
それでも行方が知れなければ越前北之庄あたりまでも逃れたのでしょうが、
どこの国までも探し出して参ります。」
その場より出立し、地理に詳しい伊吹山のあたりで200人、300人の落人を搦め捕り、
切り捨て、残る所なく探していたが、
”かうつくま”という所に山寺があり、三成は幼少の時ここで手習いを学び、
その縁を頼んで寺の縁の下に、2,3日隠れていたが、
9月23日の月が出た明け方、寺の前に出て月を詠み、どこかに落ちていこうとした所を、
運の尽きか、百姓たちに見つかり、三成は色々言い逃れたものの、
逃れ難く縄をかけられ、田中吉政の前に引き出された。
その時、三成は浅ましい姿であったが、吉政はその姿を見るや三成に近づき、
その縄を解き捨てた。
「侍の行く末というものは、誰であってもこのようになる事、珍しいものではありません。
ですのでどうか、何事もお任せください。
徳川殿の御前で、私の今度の戦功に変えてあなたのお命を申し受け、
たとえ山の奥、島の中であっても、安全に送ります。」
このように謀り透かした。
「舌があっても、食事をしなければ詮無きものです。」
そういって馳走し、その後落ち着くと、吉政は密かに三成に尋ねた。
「あなたが送った、諸国の諸大名への計略の書状はどうなさったのですか?」
「それらはすでに、去る所において山田の中に入って捨てた。」
「では、あなたのお道具の類は、どこにお預けになったのでしょうか?
もしお道具が誰かに取り出されれば、資産を無くし、
もはやあなたが再起する事は出来ないでしょう。
ですのでこの田中に教えていただければ、いかようにも取り計らい、あなたに進上致します。」
石田三成は本来流石の人物であったのだが、この時の境遇であったので完全に欺かれ、
「なるほど尤もである。」
と、大坂、京都に残し置いた物、或いは彼が潜んでいた寺の下に埋めた物も、
残らず掘り出させた。
吉政はこれを厳重に梱包し、徳川家康に提出した。
そして、
「治部少輔が生け捕りになった姿を、ご覧に入れましょう。」
と、今までは主人であるかのように遇していた三成に縄をかけ、長持ちの中に入れた。
三成はそれでも、
「とにかく、田中次第にしよう。」
と言うように成っていた。
三成を入れた長持ちが大津の陣所に入ると、一方は村越茂助に持たせ、
後のほうを吉政が担ぎ、
家康の御前に参ると、三成の身柄を確保したことに家康は殊の外喜んだ。
「先日の小山での言葉に相違なく、一層神妙である。」
と、北近江を、瀬田の橋を境として、吉政に与えるとした。
吉政は、
「私の生国でもあり、別して辱い次第です。」
と感激して申し上げた。
ところがここで、彦坂小形部が反論した。
「田中吉政は、以前は石田三成の腹心ともいえる人物でした。
そんな彼に大国である近江を与えるというのは、次に乱が起こった時、
彼がどんな行動を取るか大変心許なく思います。」
それでも、
「今度の田中の働き比類なし。」
ということで、内談の上、彼に筑後一国が与えられた。
石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊と同様に、
京の市中を引き廻され三条河原において斬られた。
38歳であったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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