関ヶ原の決戦の後、逃亡した石田三成を発見したのは、
田中吉政家中・田中傳左衛門であった。
さて、「三成捕らわる」の報に、徳川家康は村越茂助を派遣する。
村越は田中吉政に、
「三成を生け捕ったのは何者であるのか?
内府様は、御目見え致したいとおっしゃっておられる。」
と伝えた。
ところが吉政これに、
「いえいえ、名もない者であり、その様なお心遣いは、無用であります。」
と断った。
ところがこの傳左衛門、名もないどころではない。
彼はかつて秀吉に仕え、その後、関白・秀次の元で千石の足軽大将まで務めた、
堂々たる武士であった。
ところが秀次による千石堀普請の時、
その工事内容がよくないと、秀次の御意に触り、
牢人することとなった。
そこを田中吉政が引き取り家来のように使ったのだが、
同時に傳左衛門は、豊臣家直参への復帰を強く望んでおり、
折を見て秀吉などに許しを求め運動していた。
そのため家臣のように扱われているとは言え、
吉政から領地を頂くようなことをせず、
合力米を、その働きの対価として受け取っていた。
そのようであったため、田中吉政はこの時、もし傳左衛門を御目見えさせれば、
直参に戻り自分の家中から出ていってしまうと思い、
そうさせないために、村越にそんな事を言ったのだ、という。
後になってことことを知った傳左衛門は田中家を立退き、
近江においてその生涯を終えた。
享年、62歳と伝わる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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