農夫をやめて、宮部継潤に、草履取りとして仕官したが、すぐに継潤により、
「草履取り程度の器ではない。」
と認められ徒士となった。
そののち才能・武功により、家老として二千五百石が与えられた。
秀吉公が因幡の垣屋摂津守を攻めた時のこと。
すでに城の包囲は突破されたため摂津守は、覚悟を決めて自刃しようとした。
そこへ城中一番乗りした田中吉政は、摂津守に対して槍をついた。
摂津守も槍で応戦し、勝負がまだ決しないうちに秀吉公の使いが来て、
「このたび垣屋が城をもちこたえさせたのは見事である。
これまでの咎を許し、本領十二万石を安堵しよう。」
と言ってきた。
そのため吉政も摂津守も戦いをやめた。
摂津守は秀吉公に謁見し、吉政の功績を述べた。
秀吉公は大いに感じて吉政を召し出し、そののち三河刈屋城主として四万石を与えた。
田中吉政が十八の時に農夫を辞めて、四万石を領するまで、わずか六年ばかりであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!