戦国武士の終焉、移り変わる時代。
島原の乱において鍋島隊が先駆けした事で、
鍋島勝茂は閉門処分に処されていた。
勝茂、「なんでワシがこんなめに…。」
それもそのはず島原の乱鎮圧による恩賞が最初から皆無な上に、
苦しい藩財政の中を自費で出陣、御家の為、幕府の為と思い出陣して、
奮闘してみればこのザマで、とても納得できるものでは無かった。
そんな謹慎から数日たったある日、鍋島藩邸の門前に一つの駕籠が止まる。
駕籠の中にはすっかりくたびれた老人の姿があった。
彦、「おお、ここじゃ、ここじゃ。」
名は大久保忠教、通称は彦左衛門。
彦左衛門は駕籠から降りるなり、閉じた門の前に立ち大声で叫んだ。
彦、
「以前は一番乗りをすれば御感状、御加増の恩典に預かったのに、
今は一番乗りをすれば軍法を破ったといって閉門を仰せつけられる。
さても世の中の変化、是非もなき次第、それがし御見舞いのためまかり越したり。」
これは明らかな幕府に対する叛逆行為である。
しかも大声で叫んで周辺にまる聞こえ、しかし本人は意に介さず、
彦、「では御免。」
とさっさと用事を済ませた彦左衛門は駕籠に乗り込みその場を後にした。
結局、閉門は6月29日から執行され12月30日に打ち切られる中途半端なものになった。
年が明け元旦、謹慎が解けたばかりの鍋島邸を嫌みの様にすぐさま尋ねる武将がいた。
水野勝成、
「やあ! 勝茂殿この度は災難だったのう、
だが嫌な事は忘れてまずはこの酒を飲もうではないか!」
水野家と鍋島家はこれ以降から正月元旦に祝礼交誼を行う慣例ができ親交が続く、
同じくして水野勝成に短刀を与えられ称賛された板倉重矩も、
12月某日に閉門処分が解けている。
水野勝成と大久保忠教は飲み友達として親交があったので、
この二人が何かしら幕府に働きかけたのではないかと見るのも面白い。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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