天正20年(文禄元年・1592)、
朝鮮への出兵を命じた豊臣秀吉は、3月25日、京都を出立し、
その夜は播磨国茨木に宿をとった。
そして奉行に命じて、諸々の士卒、下人、水手に至るまで、
48万人分の兵糧を緒軍に分配した。
黒田如水は、これより以前、既に豊前を息子の長政に譲っていたため、
今回は諸将とともに軍勢を率いて渡海することはなかったが、
彼は秀吉の帷幄の謀臣であったため、名古屋の幕下に留め置かれ、
軍の計策・評定に加わっていた。
この時、黒田長政の家臣である母里太兵衛に、秀吉がこのような言葉をかけた。
「昔、中国四国、九州の先陣として、
数度にわたって勘解由(如水)を派遣した時、
その勘解由の先陣は、いつも太兵衛が勤めていた。
その上合戦のたびに、一度も遅れを取ることはなかった。
お前の数々の戦功には、感じ入る次第である。
そして今また、朝鮮に先手として甲斐守(長政)を遣わし、太兵衛もその共を仕るという。
であれば、これまでの戦功に対し、
そして今回もその忠勇を励ますため、天下に隠れないほどの規模の褒美を与えよう!」
そう言って、抜身の鑓十五本を与えた。
「これを、今後毎回、出陣に際して持つことを許そう。
朝鮮に渡海すれば、これにて手柄をいたせ。
かつて織田信長公はそのお供に、抜身の大太刀を百振持たせていた。
それは大変威勢のあるものだった。
太兵衛も、抜身の槍を十五本持たせれば、なお武名を顕すだろう。」
母里太兵衛は元より勇士であったが、今回秀吉によってその名を表され、
さらに類なき御恩賞に預かり、
御領地をいかほど貰うよりも勝るものだと、かたじけなく思ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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