慶長19年(1614)、大坂冬の陣でのこと。
12月6日、茶臼山へと陣を変えた徳川家康は、備前島片桐且元の陣屋に入り、
そこから幕府方の陣地を視察、
家康は自ら銃弾避けの竹束の外にまで出て、戦場を観察した。
さて、家康の巡察が始まるまで、大坂城内からは切れ間なく銃弾が放たれていたのだが、
家康の巡察が始まったとたん銃撃が止まった。
これには、こういう理由があった。
この方面の指揮官は後藤又兵衛であった。
又兵衛は家康を見知っており、家康の姿を認めると、
「ここのような、兵士であってもなかなか出てこれない場所に出てくるとは、
さすがは徳川家康である。」
と、家康の勇気を褒め、すぐにこのような指示を出した。
「あそこに出てきたのは徳川家康である。
大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。
命令を変更する、射撃を中止せよ!」
このため、大坂城からの射撃が止んだのである。
ところがこの後、大坂城内では、この事により、
「後藤又兵衛は、家康に一味しているのだ!」
という風聞が広がり、疑いの目で見られるようになった。
又、かねてより家康は近習の者達に対し、
「後藤又兵衛や御宿越前などは、御所様(秀忠)に対し遺恨などあるはずもないのに、
どうして籠城してしまったのだろう。」
などと言っており、この事も大坂城内に聞こえてきたため、さらに疑惑が囁かれた。
後藤又兵衛が早々に討ち死にしたのは、この為であったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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