黒田忠之の家士に林田左文(左門)という者がいて、戸田流の剣術の名人だった。
彼は足軽20人を預かっていた。
ある時、その足軽のうちの6人が一味して人を殺し、出奔した。
この時、左文は馬に乗って馬場にいたのだが、この事を告げて来たので、
左文はこれを聞くとそのまま馬を飛ばして追い、
たちまち足軽たちに近付いた。
足軽たち一同は立ち止まって左文に向かい、
「我々は他国へ参っても、追い付かれたと申すつもりはありませんので、
御身様におかれても追い付かなかったということにして、ここからお戻りください。
さもなくば、敵対いたします。」
と、言った。
左文は静かに馬から下りて、
「私がここまで来たのは、お前たちを捕らえて帰り、
必ず処罰しようと思ってのことではない。是非を糺すためである。いざ来たれ。」
と言った。
6人の足軽は無言でいたが、やがて1人が刀を抜いて切り掛かった。
左文は抜く手も見せず、その者を即時に切り倒した。
そして、
「皆々騒ぐな。
この者は敵対したので、止む無く切り捨てたのだ。
敵対せぬ者をどうして切ることだろうか。
早く来たれ。」
と、言った。
すると、また2人が切りかかる。
左文は、「はてさて、愚かな奴だな。」と言いつつ、
2人とも切り倒した。
残りの3人は一同に抜き連なって掛かったが、
左文は1人を切り捨て、2人に怪我を負わせた。
これは6人一同に掛かってくれば面倒であろうと思い、静かに言葉をかけて、
6人の者の覚悟を決めた気を緩めさせたのである。
さて、左文は手負いの2人をその帯で縛り、乗って来た馬に乗せ、
自らその馬を引いて帰った。
これにより、
「天晴れの者である。」
と言って、筑前の士の多くはこの左文の門人になった。
ところで、馬爪源右衛門という鉄砲の名人の士がいた。
鉄砲の他にも総じて武芸を好んだ者だったが、彼は左文の門人にはならず、
諸人がその理由を問うても、ただ笑って答えなかった。
その後、左文は罪あって刑せられた。
その時、源右衛門は親や数人に、
「左文は、剣術は名人だが、その性質は大奸邪だ。
ゆくゆくは何事を仕出すかも計り難いと思って門人にはならなかったのだ。
師弟になった時に、もしも『奸曲に組せよ』と言われて組しなければ師に背くし、
組すれば主君に背くことになる。
これが“愚者も千慮の一得”である。」
と、笑って語ったということである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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