飯田覚兵衛(直景)は、加藤清正以来の名高き武士であったが、
肥後加藤家が改易されると、その後、黒田家に招かれて仕えた。
ある年、長崎警護の番頭として詰めていた時、南蛮国より黒船が入港した。
これに奉行人・諸役人評議し、黒田家の番頭を召し出して、
『今回黒船が入港したことを江戸表に報告するが、その往来の間、この船を預かり守るべし。』
と申し渡した。
この役割は、元来大儀なものの上に、
黒船は水上24間(約44メートル)の大船であったので、
50万石の人数を尽くしても半分にも届かないような海上のことでもあるから、
『黒田家の番頭も、定めて難儀を申してくるだろう。その時は加勢として誰々を。』
等相談していたのだが、
飯田覚兵衛は意外にも、心やすく申し渡しを受諾した。
早速筑前表に申し遣わすと、かねて用意のことであったので、
上下の士たちが集合した。
この時、黒田家の家司某が、飯田を招いて尋ねた。
「この黒船守衛の事並々のことではない。
万一黒船に異変が有れば、大海を手にて防ぐという諺のように、
黒田家の名折れにもなるだろう。
であるのに、加勢等の沙汰にも及ばず、簡単にお請けしたのはどういうことか。」
飯田、これに申し上げた。
「大筒や石火矢など多くの仕掛けがある南蛮船を取り逃がすべからずとの事、
かつ海上の事ですので、
非常に難しいといえば、幕府からも聞き届けられるでしょう。
しかし、鍋島家と当家は、所役免除あって異国守衛を仰せ付けられ、
この長崎表に人数を置いているからは、
異国船が何百艘来たとしても、取り逃がすことは出来ません。
であれば、何が起こるかわからない海上の異変について、計るべきではありません。
この考えで、私は筑前を出る時から死は覚悟しておりますので、今更思慮にも及びません。
異変が有れば、それまでの命と存じて、軽々しくお請けいたしました。
我々が今さら、大した理由もないのに難渋を申し立てて辞退すれば、
長崎警護としての甲斐もなく、
鍋島家からも笑われてしまうでしょう。
これは武勇の御家に疵を付けることです。
それ故に決断して、請け合ったのです。」
これに、家司を初め皆々、尤もであると感じ入った。
それより飯田覚兵衛は指図して、段々の船組を定め、
番船の最初に自分が乗って押し出し、海上の行列、
使番船の進退、大筒等の火器の取り扱いに至るまで、
飯田の下知の行き届くこと、陸地を往来するが如くであった。
これには、黒田家の、旧来からの海上のことに熟練している者達も感服したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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