加藤肥後守清正は、武勇のみならず、能く人を使ったそうだ。
彼の家来に、飯田覚兵衛という武功の者があった。
ある本に、飯田覚兵衛ははじめは「角兵衛」と書いたが、朝鮮征伐の時、手柄があったため、
豊臣秀吉の命により、「覚」の字にした。
これは文禄二年の事だという。
肥後加藤家が滅亡ののち、飯田覚兵衛は京へ引き込んで、再び奉公もせずに居た時の物語に、
「わが一生は清正に騙されたのだ。
最初、武辺を仕った時、その場から帰ってみれば、
私の朋輩たちは皆々鉄砲に当たり、或いは矢にあたって死んでいた。
さてさて危ういことである。
もはやこれ限りにて武士の奉公を止むべし。
そう思って帰るやいなや、
『さても今日の働きは神妙、言う事無し!』
そう言われて清正より腰のものを給わった。
私はこのように、戦のたびに毎回武士をやめようと思っていたが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられ、このため諸傍輩も羨み、讃嘆したため、
その空気に引っ込む事も出来ず、侍大将と言われるほどになった。
一生清正に騙されて、私は本意を失ったのだ。」
そう語ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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