もともと畠山氏であったが、幼少より出家し、
根来山に8年、高野山の木食上人に学ぶこと3年で薩摩に帰国。
龍伯公(義久)より家老を命じられた。
上京した龍伯公が泰平寺に御家人七人をお供にして向かったところ、
京勢が道を遮り島津勢を嘲笑した。
このとき盛淳は刀を抜き、眼を怒らせて叱責したところ、
京勢は恐れをなして島津勢に対して道を開けた。
上方騒乱の際、大垣に着陣したところ、惟新公(義弘)は手を取って大いに喜んだ。
石田三成も着陣祝いとして金の軍配を贈ってきた。
関ヶ原合戦では、
「万一の殿の御大事に備えて、羽織をいただきたい。」
と惟新公の羽織を拝領し出陣。
負け戦となったため、
「殿様は何処にいらっしゃる?」
と家来どもに聞いたところ、
「すでに遠くへ御退去されました。」
と家来が答えたため満足し、刀を抜き、拝領の羽織と金の軍配を敵方に見せつけ、
「島津兵庫頭(義弘)、死狂いなり!」
と名乗りを上げ、大勢の敵に斬りかかっていき、敵方の槍数本に貫かれて死んだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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