山田有信☆ | げむおた街道をゆく

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山田有信の祖父・有親は、島津宗家より独立を図った出水の島津実久に味方し、

降伏後に切腹させられた。
有信の父・有徳は、島津貴久に仕えるも家中では「逆臣の子」と蔑まれていた。
そして有信自身も、「逆臣の係累」とよばれ、家中では白眼視されていたのだった。

しかし有信はそんな事を気にせず忠勤に励む。

その結果、宗家の信頼を勝ち得て、各地の地頭職を任され勤め上げていく。
 

1577年には島津義久は有信を対大友の最前線、日向新納院高城の地頭に任命している。
「逆臣の係累」と呼ばれた有信だが、義久は信頼したからこそ最前線を任したのであろう。
 

そして有信自身、義久の信頼にしっかり答えていくことになる。

翌年4月大友の大軍4万が南下し、日向に殺到、

有信の居城・高城も包囲され3千VS4万の壮絶な籠城戦を戦うことになった。
 

籠城中に嫡男・有栄誕生の知らせを聞いた有信は、
「これで家が絶えずにすむ。おかげで城を枕に存分に戦い、討ち死にすることができる。」
と喜んだという。

 

家中では「逆臣の係累」と呼ばれた彼だが、忠義を守って討ち死にする覚悟であった。
 

11月まで籠城戦を戦い抜いた有信のもとに義久の援軍が到着。
耳川の戦いにより島津が九州の覇者となった。

また有信自身も高名をあげている。

それから9年後、今度は豊臣秀吉の九州征伐軍を迎え撃つことになる。
このときは豊臣秀長率いる10万の軍勢を相手に籠城戦を戦い抜くのであった。
 

高城は、主君・義久が降伏するまで落ちず、

義久からの使者に説得されて降伏開城と忠義を貫き通す有信。
 

この戦いは豊臣勢に激賞され、秀吉本人から、

「天草4万石を与えるから、直参にならないか。」

との誘いを受けている。
 

義久への忠義を尽くす有信はこの申し出を断っている。
そんな有信を義久は老中に抜擢、島津家中の最高職を任すのだった。

1609年老齢の義久が病に倒れると、有信は自分が身代わりになると自害して果てた。
病が言えた義久は、有信の棺を内城に召し寄せ焼香し、
「はちす葉のおきこぼしたる露の玉のおわりや君が為にすてけん」
との和歌を送っている。

「逆臣の係累」と呼ばれた男は「無二の忠臣」と呼ばれ死んでいったのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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