文禄の役の時のこと。
『明軍来る』
の報を受けた日本軍は、江原道・慶尚道の入口に近い、金化城での防衛を決定した。
しかし諸将は、近くに都市が無く、孤立しやすい金化へ行くことを渋り、
結局奉行らの指図で島津家がこの任に当たることになった。
伊集院幸侃は、島津義弘に進言した。
「諸将が『防衛し難い』と言っている城を、我らだけで守るのは、賛成できません。
わが薩摩兵とて、金石のごとく固いわけではありませぬ。この任は辞退するべきです。」
これに義弘の嫡子・島津久保が反論した。
「『士は勇を尊ぶ』、と言う。
諸将が断ったのは、勇なきが故だ!
これに習えば、我らもまた勇なき者ということだ。
恥ずべきである!」
義弘は久保の言葉に従い、金化に移った。
しばらく後、ついに明軍が来て金化城近くにある山に登り、城中をうかがった。
久保はみずから鉄砲隊200を率いて山を奇襲してこれを追い払い、首30余を得た。
思わぬ手柄に喜ぶ兵たちに、久保は言った。
「この程度の首を持って帰り、功を誇る気は無い。」
そこで首を全て木の枝に吊るし、銃創のある敵の遺体を木に縛りつけ、金化城に戻った。
これが良い敵への威嚇となり、敵は再び金化城を伺わなかった。
その事を知った義弘は、久保を激賞し、諸将はことごとく久保の武勇に感服した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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