戦国末期、キリスト教や鉄砲と供に、洋馬(アラビア馬)も日本にもたらされた。
島津貴久は、日本で始めて鉄砲を実戦に投入した大名として有名であるが、
実は洋馬の育成にも力を入れていた。
その様は「三国景勝絵図」に「吉野唐牧は異国の種を牧畜す」と書かれるほどであり、
今も鹿児島市内に牧場跡が残っている。
そんな貴久が、国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た。
その夢には白髪の老人が現れ、このようなことを告げた。
『自分は馬頭観音である。
長い間ここにいるが、誰も私のことを顧みてくれない。
貴久よ、もし私のために寺を建ててくれるなら、
長くこの国の守護となりお前達を守って進ぜよう。』
翌日、弥勒院の日秀上人や八幡宮の桑幡神官と囲碁を打っていた貴久は、
昨日の夢のことを相談した。
「実は昨日、かくかくしかじかの夢を見た。
これは霊夢と思われるが私には俄かに判じがたい。
お二人はどう思われるか、一つお考えを示してくれぬか。」
すると上人と神主は顔を見合わせた後、異口同音に答えた。
「それは紛れも無い吉夢です。
実は私達も同じ夢を見たのです。
是非お寺を建立なさいませ、さすれば、ご当家の繁栄間違いありますまい。」
そこで貴久は、今しがたまで使っていた愛用の基盤で、馬頭観音の像を刻み、
八幡宮の近くの獅子尾山に観音堂を建て奉った。
そして正月18日を祭り日とし、
馬に鈴を飾り付けて参詣させ、踊りを奉納させることにした。
これが今に伝わる「鈴懸馬」である。
時に天文二十一年、貴久の息子達が初陣を飾る二年前のことであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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