島津家大永の内訌☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

大永7年(1527)、島津貴久は、守護職を継いで鹿児島清水城にあり、

養父で前守護職の島津勝久は、伊作に移って隠居した。

ところが島津実久が勝久と通じ、貴久の実父・忠良と勝久の離間を図った。

実久が伊集院城と谷山城を攻略して鹿児島へ向かうと、

忠良は加治木・帖佐の地に、勝久を移そうと船で鹿児島に向かったが、

戸柱まで来た時に不穏を見て取り、田布施へと帰った。

 

実久は貴久に守護職の返還を求めたが、貴久はこれを拒否して清水城を死守しようとした。

しかし鹿児島に内応者がいるとの風聞により、

貴久は夜に城を抜け出して、園田実明の宅に隠れ、実久の追手を逃れた。

のち勝久は実久に擁されて清水城に帰り、

島津氏は、勝久・実久派と、忠良・貴久派に分かれて内訌に陥る。
 

享禄2年(1529)、島津忠朝は両派の和解のため、

新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田董親・樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らと、

会して勝久に謁見し、事態の解決を図ったものの、

勝久の態度は要領を得ず、皆怒って帰ってしまった。

勝久は忠朝の跡を船で追って大隅に至ったが、むなしく帰ることになったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 島津の英主、島津貴久

 

 

 

ごきげんよう!