島津忠良・貴久は、島津実久方の要害・一宇治城を攻略せんと、
同城を守る町田用久を誘ったが、彼はまったく応じなかった。
そこで千余騎を率いて城を攻めたが、堅城ゆえになかなか落とせない。
この時の用久は、実久を訪ねており、そこを狙っての攻撃であったが、
このままではいずれ実久と用久が駆け付けて来て、
貴久らの大敗北は必至であった。
夕方になって事態を危惧した忠良は、
家臣で山伏の本田石見房慶俊を呼んで落城祈願を命じた。
慶俊が祈願を行うと城の西北部、本陣から700mほど北方、
城麓の振木口という神之川の川辺あたりに狐火が起こり、
それが林間を山上へと上っていった。
そこでその跡について行って攻め込んだところ、容易く攻落することができたという。
険峻を頼みにして守備兵を配置していなかったためで、
現在ザビエル記念碑のある神明城付近に突入したのではないだろうか。
忠良は石見房の功を賞して、城の東方護摩所から東に向けて矢を射らせ、
その矢の落ちたところに稲荷神社を勧請して石見房に守らせた。
上之平の稲荷神社がそれで、石見房は犬之馬場の旧伊集院庁舎一帯に屋敷を賜り、
子孫が現在に至るまで神社を管理している。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!