島津勢が、肥後国立花山に進出してきたところに、
同国三船の大友方、賀井鑑隆入道宗運が軍勢を出しそれを撤退させた。
しかし島津勢は重ねて軍勢を出し、天正10年6月中旬に、竹ノ井原に陣取った。
賀井宗運は即座に駆けつけ、島津勢を追い崩し、敵300余りを討ち取った。
そして首実検をしている所、にわかに大雨降り、山水おびただしく出て、
賀井宗運が床几に腰掛けている場所にも、しきりに押しかかった。
この時、宗運の嫡子である鎮隆はこの水から逃れようと、
あちらこちらの高台を目指してうろつき回った。
これを見た宗運は激怒した。
「日本一の不覚なる仁である!
この程度の水に恐れ騒ぐ心では、強敵に向かって一体何の役に立つのか!?
私が死んだ後、おめおめと薩州の幕下になるだろう。
何と口惜しいことか。
そうなれば南方の敵を、一体誰が防ぐというのか?
ともあれ、宗麟公の御運の末こそおいたわしい。」
そう言って、その場より豊後に使者を立て、鎮隆不覚の次第の書付を添えて、
『私は今日から、鎮隆を不快に仕りました。
そうして、私が果てれば、肥後国には南方の敵を防ぐものは一人もおりません。
この事を判断材料にしていただくため申し上げます。』
これを宗麟近習の田原紹恩まで届けた。
その後程なく、賀井宗運は死去した。
跡を継いだ鎮隆は一戦する事もなく、弱々と薩州の軍門に下った。
あまりに言う甲斐もない次第である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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