天正17年(1589)、正規(生駒親正)は、
大坂在勤の時に予州今治の城主・藤堂佐渡守高虎と御対談あって申されるには、
「今度、今治に御帰路の時に我が高松へ御立ち寄りになって、城地を御見分してくだされ。」
と申された。
高虎は申されて、
「もちろん私も参るつもりだが、幸いにも黒田如水が近日中に中津へ帰られる。
時を合わせて同道仕り、如水に見分して頂けるように相談しましょう。
この人は城取り功者で諸方の城々はおおかた如水の見分で相調ったのです。」
と仰せられた。
これに正規は喜び申され先立って高松へ下着し給い、
西浜東浜の間に仮屋形を造り待ち給う。
程なく両将御下着なさり高松の地を見分なされた。
如水は仰せられて、
「これは究竟の城地です。富貴繁昌ともに備わって要害良く、
諸方の船路は便を得て、国主の居城に合った地形です。」
と誉め給う。
正規は申されて、
「西の山が程近いのだが、どうでしょうか。」
と御尋ねになった。
これに如水は仰せられて、
「この山なくてはこの所で城取りは成り難いでしょう。
この山があって西を塞ぎ、寄口は南一方になるため要害に良い。
特に山は険阻で人馬の足場がなく、北は海岸に入って海深く、
山の根は潮汐の差し引きあって敵人は留まることができない。
東は遠干潟で川入あって敵人は留まりがたい。
南一方を防ぐだけである。
味方千騎の強みとは、この山のことである。」
とのことだった。
このため正規は安堵して、この場所を城地に定められたのだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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