天正十四年、九州征伐の最中に、戸次川の合戦で当主・存保が討ち死にを遂げてしまった、
讃岐の国主十河家。
事実上、阿波三好家の後継者であったこの家系には、
存保の死に際して少なくとも二男が存在した。
千松丸と存英の二人がそれで、嫡男である千松丸は時に十三歳、元服を未だ迎えず、
二万石の所領は収公され、
翌年讃岐一国十七万石は生駒親正に与えられることとなった。
ただし、この内十河家の所領二万石は、一時預かり的な意味合いのものだったとも言う。
さて、生駒氏が讃岐を統治するに当たって、
旧国主で四国東部に隠然たる影響力を持つ十河氏は厄介者であり、
親正はこの厄介な被養育者を、三千石の捨扶持を与えて飼い殺す道を選ぶ事にした。
むろん、親正には千松丸が長じた後に所領を返還する意思など一切ない。
三千石にはわざわざ「鼻紙代」と言う侮蔑的な呼称まで付けた。
鼻も拭けない小僧、という蔑視の表れである。
家臣化すればそれでよし、出て行くようならそれもよし、程度の認識だっただろう。
おそらくは時が経れば秀吉も彼の存在を忘れるだろう、という期待もあったのだろうが、
それは聊か甘い未来予想だった。
天正十七年、千松丸十五歳。
元服にも程よい頃合に、千松丸は秀吉に呼ばれ、その謁見を得ることを許された。
その席には生駒親正、そしてその甥(孫とも)の大塚三正が同席している。
この二人の前で、秀吉は千松丸が順調に成長していることを喜び、
その所領を三千石と聞いて不満の念を親正に漏らす。
親正は大いに畏まってその場を引き下がり、すぐに大塚に命じて、善後策を処すことにした。
かくして十河家の大名復帰は約束されたかに見え、千松丸は意気揚々と帰国する。
そして帰国するや否や、即座に『病』を得て帰らぬ人となった。
余りにも不自然な死の成り行きから、人々は生駒親正の仕業と信じて疑わなかったと言う。
「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」
千松丸の死後、旧領の遺臣や領民はこの様に謳い、生駒家に殺された千松丸の冥福を祈った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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