豊臣家三中老の一人としても有名な、讃岐十七万石・生駒親正。
彼がその領地にて、丸亀城を築城していたころのお話。
この城の石垣を造るにあたり、
親正は、石垣造り天下一との評判の石工・羽坂重三郎に依頼をした。
重三郎の造営術はすばらしく、たちまちのうちに見事な石垣が完成した。
これには親正も上機嫌で、
「実に天晴れである。流石は羽坂重三郎。お主の名声は伊達ではないわ。
これほどの石垣ならば、鳥でなくては登る事もかなうまい。」
と、喜んだ。
「そうでもありませんよ。」
重三郎はふと、言った。
「余人では無理でしょうが、わたくしなら棒の一本もあれば、
このくらいの石垣、登って見せましょう。」
親正も、
「な、ならば登って見せよ!」
と、少々剥きになる。
すると重三郎、大工道具の中から一本の棒を取り出すと、それを石の隙間に差し込みながら、
するすると石垣を登ってしまった。
「この通りでございます。」
大したものだ、流石は重三郎である。
親正は彼をまた、褒めた。
さて数日後、親正はまたも重三郎を呼び出した。
「実はな重三郎、内々に城から井戸までの、抜け道を造りたいのじゃ。
おぬしの技術を見込んで、どこの井戸から道をつなげればよいか、調べてもらいたいのだ。」
重三郎は喜んでこれを受けた。
城の周辺の、一つ目の井戸、二つ目の井戸、と調べていき、
三つ目の、二の丸の井戸の底に入った時、
「重三郎、お前がこの石垣を登れるようでは、いざと言う時敵に内通されれば、
この城の致命傷となる。かわいそうだが…。」
「と、殿様!?」
親正は家臣に命じ、井戸の中に巨石を落とした。
この、重三郎が巨石の下敷きにされた井戸は、
今も「二の丸井戸」として、丸亀城に残っている。
そして丸亀城の石垣は、その角度の美しさから「扇の勾配」と呼ばれ、
訪れる人たちを今も、感嘆させている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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