天文16年(1547)、長宗我部国親は、
下田駿河守が籠る、下田城(別名・蛸の森城)攻めを決断し、
久武肥後・福留隼人を大将として総勢800騎、本拠である岡豊を出立しようとする所に、
尼僧が一人、福留隼人の元を訪れ、畏まって、こう申し上げた。
「私は、下田の百姓の妻でありました。
夫は死にましたが、常陸という一子があり、
これを杖とも柱とも思い頼って生きていたのですが、
去年の秋、年貢の納入が遅滞した咎で、常陸は是非もなく殺されてしまったのです。
それから、このような、明日をも知れぬ老いの身の、頼る所もないままに、
所縁の者になんとか扶けられ、今日まで存命して参りました。
こちらではこの度、下田に御旗を向けられるということです。
ならば私が城中に手引きし、
お手を砕かれるまでもなく、城を焼き崩し、下田殿に思い知らせ、
それを我が子への供養とし、
この老尼の、恨みを晴らしたいのです!」
そう言って、声を上げて泣いた。
福留隼人もこれを聞くと涙を流し、直ぐに国親に報告した。
国親はこれを大いに喜び、
屈強な若侍3人を老尼につけて遣わした。
その上で、城中に火の手が上がれば攻め入るようにと、軍兵250騎を、福留隼人を大将に、
片山・衣笠の山陰に、10人、20人、5人7人と分散して忍ばせ、合図の煙を待った。
さて、老尼は3人の男を下人に仕立てて、一人には袋に衣装を入れて持たせ、
残りの2人には雑掌と思えるものを担がせた。
これには火打石・火付け竹・その他兵具が入れてあった。
そして下女一人を召しつれ、下田の城のある蛸の森へと参った。
老尼は番の者に近づくと、
「衣笠の何某の母ですが、御台所様へお目見えのため参りました。」
と言うと、番人は問題ないといって、懇ろにして彼女を通した。
元より内部の事は知っており、直ぐに木陰に隠れて支度をし、そのまま火をかけた。
その時、丁度西風激しく、堀門矢倉に延焼し、黒煙が天を焼くように上がった。
城中はこれを敵の仕業とは思わず、何かの過失と考え、
「火を防げ! 財宝を避難させろ!」
と上へ下への大騒ぎとなっていた。
ここで国親が付けた3人の男たちが、そこかしこに走り鬨の声を上げると、
隠れ伏せていた長宗我部の軍勢は、
火の手を見て、貝を吹き太鼓を打ち、鬨を作って押し寄せた。
下田の城兵たちは大いに驚き、敵を防ごうとしたものの、城の猛火が襲い来て、
為す術もなく我先にと落ちていった。
これにより勇猛の名高き下田駿河守も、遂に討ち死にし、下田城は落城した。
この頃、誰が詠んだのか、
『いでもせで 焼崩したる蛸魚の森 いかなべの料理なるらん』
という歌が人口に膾炙したそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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