関ヶ原の後、土佐国主となった山内一豊は、早速家中の者達に知行をあてがい、
そのうち山内刑部一照は本山を与えられ、かれは古城を改修しここに入城した。
さて、この地には、高石左馬助・吉之助という兄弟が有った。
彼らは長宗我部氏に属した武士であり、この地の領主であったが、長宗我部盛親の没落後は、
旧領の傍・下野に忍び暮らしていた。
慶長8年(1603年)11月、この年は旱魃が続き、田野に青草もない状況となり、
高石兄弟も年貢を収納することが出来なかった。
山内刑部の役人たちは高石左馬助に使いを出して、年貢を納入するよう求める。
左馬助は様々に詫びたが、使いは、
「殿がこちらに入部された最初の納入である! 今後のためにも、疎かにしてはならない!」
と言って、しきりに左馬助を責めた。
左馬助は致し方なく使いに向かって、
「今年が凶作であることは、世の中皆知っていることである!
私には納入するものが無いのだ!
万物が実らないのは天の業であり、我が力の及ぶ所ではない!」
そう返事をした。
使いは帰ってこの旨を伝えると、役人たちは腹を立て、
「そのような奴らの言うことを、そのままに聞いてしまえば、
今後、狼藉が絶えないだろう。
その者を召し捕り牢獄に入れ、諸人への見せしめとするのだ!」
と評議して、再び使いを出し、
『誠に納入しないのか、その方に直に仔細を聞きたい。すみやかにこちらに来るように。』
と伝えた。
これを聞いて左馬助、
「心得たり。」
と出立した。
この時、弟の吉之助は、
「俺も一緒に行こう。」
と言い出したが、
左馬助、
「いやいや、お前は無用だ。どうせ、私を擒にするための企みであろう。
なあに、どれほどの事があろうか。
お前は旧交の者たちを集め、瀧山に立てこもる用意をせよ。
私は城下に行き、思うままに言い散らし、
近づく奴原があれば、50人でも70人でも踏み倒して、さっさと帰ってくるさ。」
そう事も無げに言って、城下へと向かった。
到着し、役人たちの集まっている場所へ少しも臆することなくつつと入り、
役人の頭人に膝下近くに畏まり、申し上げた。
「それがしを召されたのは何事でしょうか?」
頭人、
「年貢の収納を、どうするつもりなのか?」
左馬助カラカラと笑い出し、
「さてさて道理を弁えぬ人々かな。
治めるべき年貢など無いと、何度も言ったというのに、
さては使いが申さなかったのか?」
これを、
「天晴悪き言い分である!」
と両方より左馬助を捕えようと近づいてくるのを、
「心得たり!」
と左右に突き飛ばした!
「やあ、ここに留めようと思っているのなら留めてみよ!」
と刀の柄に手をかけあたりを睨みつける。
その場の者達、ひしめきながらもあえて彼に手を出そうとはしない。
そこで左馬助は、
「なにか私に言うことはありますか?…無いのなら、暇を申し上げる。」
そう言い捨て悠々と立ち去った。
さて、彼の帰りを待っていた吉之助、左馬助の姿を見ると、
「どうだった!?」
と聞いてきた。
左馬助、
「なあに、大したこともない。だが油断してはならん。」
と、同心の者達300人ほどを集め、近郷の家々を略奪し、
そうして瀧山に立て籠った。
これが長宗我部旧臣による最後の武力抵抗となる、
本山一揆(瀧山一揆)のはじまりであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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