関ケ原☆ | げむおた街道をゆく

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前のこと。

 

会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康であるが、
のちに関が原で家康と激突する石田三成は、

家康に付き従った諸大名の妻子を人質として家康らをけん制しようとしていた。

上方ではその様な状況の中、山内一豊の妻・千代こと見性院の元に、

増田長盛と長束正家の連署で一通の書状が届いていた。

千代の夫である山内一豊に石田三成の西軍へ与力するよう促す内容の書状であった。

使者の言葉通り、夫・一豊にこの書状を届けることにした千代であったが、

千代はそれとは別に2通の書状をしたため、
一通は未開封の増田と長束の書状と共に文箱に入れ、

もう一通は観世よりにして、夫への使者である田中孫作の笠の緒により込んだ。

孫作は下野に陣を張る一豊の陣へ向けて書状の入った文箱を持って旅立ったが、

道中で追い剥ぎに遭い文箱と笠は守ったものの、
自身の大小と衣服を追い剥ぎに奪われてしまった。

孫作は他者から衣服と刀(銘兼元という)を奪って旅を続け、

美濃路では鮨屋の床下で二昼夜を過ごしてすし桶を盗んで飢えをしのいで、
何とか下野諸川(現在の茨城県古河市)の一豊の陣までたどり着いた。

慶長5年(1600年)7月24日のことであるという。

文を受け取った一豊はまず孫作の笠の緒に練りこまれた千代からの文を読んだ後、

それを近侍の野々村迅政に焼かせたのちに文箱の封を解かずに、
家康に届けさせた。

家康は大坂の状況を知り得たことと、同封された千代からの書状に、

一豊が家康に忠を尽くすよう書かれていたことを読んで感動したという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 功名が辻・異聞、山内一豊

 

 

 

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