元亀元年(1570)、織田信長による越前朝倉攻めの際、
朝倉方の金ケ崎の城兵達はこれに立ち向かいよく防いだものの、
ついに打ち負け撤退を始めた。
しかしここで、朝倉家臣の三須崎勘右衛門と言って、高名なる精兵が殿をし、
敵が近づけば即座に打ち倒し、
味方を助けつつ引き退いた。
そして首坂まで至った所で、羽柴秀吉の軍勢がこれに襲いかかった。
真っ先に進んできたのは、山内猪右衛門一豊である。
と、三須崎勘右衛門、それを坂中で弓引き固めて待ち構えていた。
しかし一豊はそれに少しも構わず槍を振り上げ駆け寄った!
三須崎勘右衛門は三間ばかりの距離でひょうと撃つと、
その矢、過たず、一豊の左の頬から右の奥歯に突き刺さった!
が、一豊、これにもちっとも構わずそのまま突進!
谷を飛び越え三須崎勘右衛門と組み打ちを始めた!
上になり下になり、二〇間ほども転げまわった所に、
三須崎勘右衛門の弟が駆け寄って一豊を斬ること六ヶ所。
これは危ない、と見えた所に織田方が大勢駆けつけたため、
三須崎勘右衛門の弟は兄を捨てそちらの方と戦い始めた。
そうしている内に一豊と三須崎勘右衛門は坂の下の小溝に重なりあって落ち、
ここで一豊は終に三須崎勘右衛門を刺し殺した。
しかし一豊自身も、大矢で射られ、
かつ、致命傷ではなかったものの六ヶ所も刀傷を受けており、
すでに息絶え絶えであった。
こんな所に織田方の大塩金右衛門正貞がやってきて、
三須崎勘右衛門の頸を斬って息絶え絶えの一豊に渡し、
自身はそのまま撤退する敵を追いかけていった。
こうしている内に、一豊の家臣である五藤吉兵衛為浄がようやく追いついた。
一豊はこれを見ると、
「矢を抜け!」
と叫んだ。
見ると矢柄は組んで転んでいる時に砕け、根本ばかり残って少し見える程度。
抜こうとしてもなかなか抜けず、業を煮やした一豊は、
「足で踏んで抜け!」
と怒鳴った。
吉兵衛は畏まって草履を脱ごうとしたが、一豊、
「いいからそのままでやれ!」
と言ったので、山の岨に寄りかからせ、
草履を履いたままで一豊の顔を踏みつけ矢を抜いた。
それから吉兵衛は一豊を背負って本陣に向かって退いていたが、
途中、月毛の馬を引いて行く者と出会った。
吉兵衛が、
「その馬はどこの殿の馬か?」
と聞くと、誰々の馬である、と言う。
これを聞いた吉兵衛、
「お前のあるじはさっき討ち死にした!そんなわけでその馬よこせ!」
と奪い取り、これに一豊を乗せて帰った。
三須崎勘右衛門の頸は吉兵衛から秀吉を通して信長の実検を受け、
越前に隠れなき強弓精兵の頸と認められ、
信長は、一豊にこれで傷を治療するようにと、手ずから薬を吉兵衛に下された。
この時の矢の根は、今も五藤の家にあり、
その時の草履も、主君の面を踏んだものとして、矢の根に添えて、
家の宝として代々伝えているそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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