山内家の先祖・山内一豊が、未だ若年で羽柴秀吉に奉公した時分は、
わずかに三百石ほどの平士であった。
天正元年のいつごろか、
秀吉の旗下であった梶原某という美濃の武士が、
密かに敵方に内通したとの報が、秀吉の耳に入り、彼を成敗することと成った。
この時、彼を放し討ちする事となったが、
梶原は勇士であったので一人では仕損ずるかも知れぬと、
三人の部下に命じた。
この中に山内一豊も入っていた。
彼ら三人は籤をして、一番を某が、二番を某が引き、一豊は三番の斬手と決まった。
その頃、梶原某は、美濃の名抦川の堤普請の指揮をするため、
その地に出張していたため、三人は遊山観水のためと称し、
梅ヶ寺という山寺へ居たり、梶原に、
『折よく弁当も持参しましたので、どうぞお立ち寄りください。』
と使いを出すと、梶原早速やってきた。
三人が門外に出迎えて見ると、家来を十余人も引き連れていて、
彼らは主人梶原の傍に付き添い少しも離れない。
三人は梶原とともに連れ立って寺の中に入った。
その時、一豊は少し後に下がって、
「梶原殿のお供の衆が混み合っております。」
と声をかけた。
梶原これを聞くと十間ばかり立ち帰り、家来たちを叱って遠のけた。
この時、一豊、
「上意である!」
と声をかけ、関の兼常の一刀を抜き打ちに斬りつけた。
梶原は初太刀を受け損じ、
少し狼狽した所を、他の二名が駆けつけ遂に仕留めた。
この時に兼常の刀は梶原の大骨を断つことが出来なかったので、一豊は少々不満であった。
天正六年、中国にて秀吉が敵城を攻め落とし、自ら乗り込んだ時、
明馬屋の内に鎧を着ていない大男が居たので、秀吉が目ざとく見つけ、
「それ山内!」
と声をかけると、一豊は例の兼常を以って抜打ちに大袈裟に斬り放った。
甚だ見事に斬れたので、秀吉は、
「素早き太刀風である。」
と賞賛した。
そののち、天正十五年、一豊の草履取りに不届きなことがあって、
一豊は大いに立腹し兼常の刀を持って追いかけた。
すると草履取りは庭口より逃げ出し、門前の橋の上から湖水に飛び入ろうとした。
その寸前、追い付くと抜打ちに斬って落とした。
この時も無類の切れ味であったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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