慶長二十年(元和元年)、両公(徳川家康・秀忠)は、
正月末に御帰府されたが、程なく大坂との御和睦破れ、
同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、
四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。
内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は、
残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。
五月始め、諸勢大和口より押し詰め。
国分、道明寺、松坂に陣した。
五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。
肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも大坂城に火が掛かり、御勝利となった。
そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に、
「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、
推参仕りました。」
と申し上げると、上意に「何の尼崎。」と仰せになられ、御機嫌良かった。
さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」
と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり、
「汝、その躰にても出陣、奇特である!」
との御意があった。
両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで、
「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事が、これに等しいだろうか!」
そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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