慶長十九年、大坂御謀反にて御手切となり、
片桐市正(且元)はその所領である茨木に立て籠もったが、
これを大坂の軍勢が打ち潰すとの風説が頻りであった。
その頃、肥後守(戸川達安)は、駿府より御暇を賜り、在所へ帰る途中、
京都に立ち寄り所司代の板倉伊賀守(勝重)の許へ参向した所、
伊賀守はこのように語った。
「片桐市正が茨木に在るのですが、大坂よりこれを攻めるようです。
そこで只今、片桐への加勢を専ら催しているところです。」
これを聞いた肥後守は取るものも取り敢えず、
「私は通常の旅行故に、一層人数も少ないのですが、ここから直に加勢に行きましょう。」
伊賀守は大いに感心して、
「流石は肥州殿、あなたが御援助を加えれば、茨木も潤色となるでしょう。」
と申したため、その場より直に肥後守は茨木へ向かった。
そして片桐市正と対面し、これこれを経緯を述べると、市正は大いに力を得て、
城内の成大寺という場所に肥後守を置いた。
肥後守が宿陣し四,五日滞留する所に、大坂方では茨木攻めについて異論が出、
その上肥後守が加勢に来た事なども聞いて、茨木攻めは容易ならずとの評定があり、
この事は中止とされ、この表は無事となった。
これ故にひとまず肥後守も在所へ帰った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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