中納言秀秋は、隣邑の領主を蔑ろにし☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の戦いの結果、中納言(小早川)秀秋は、

備前美作拝領の後、岡山に在城して威を震い、
隣邑の領主を蔑ろにし、領境忘れたように振る舞った。

 

そのため、同じく関ヶ原の後、
備中庭瀬三万石を領し小早川領と接した肥後守(戸川達安)との関係も宜しくは無かった。

そのような中、小早川秀秋とその重臣の間の関係が悪化し、二名が小早川家を立ち退いた。
この両人の内、稲葉内匠佐は、肥後守を頼ってひとまず庭瀬まで立ち退こうと欲した。

この事を肥後守も承諾して、小早川領と庭瀬の境に堀切して橋を掛け、

柵木等を用意し、専ら防戦の支度をした。

 

その当時は、宇喜多浪人の名の有る者達が所々に散在しており、

彼らに対し肥後守は合力致し置いていたため、

いざという時は彼らが庭瀬に馳集まるはずで、

そうなれば備作両国の人数で攻めかかっても容易には取り潰されることも無いと見えた。

さて、稲葉内匠が立ち退く日限に至り、

肥後守より池田市右衛門、森三郎右衛門という物頭両人に、
足軽五十人を付けて、境目の少し先の川にある白石という橋まで出迎え稲葉内匠を守護し、

庭瀬へと帰った。

 

内匠は使者を以て、
「段々の御手当を忝なく存じます。これを忘れることはありません。

美作表を何の問題もなく引き払った上は、これより直に立ち退きます。」
と謝礼した。

 

そして肥後守は町口まで出て面会し、互いに式礼して立ち別れた。
内匠は児島下津井より船に乗って上方へ登った。

その後、小早川秀秋も肥後守方へ手入れがあって、
「近隣の事でもあり、誠に宿老の事、よろず頼みこれを存ずる。」

旨を申し越した。
 

故に、以後は肥後守も小早川家に出入りするようになり、庭瀬に秀秋卿を招待した時、
秀秋より大左文字の刀を送られ、肥後守からは通天と号した駿馬を送った。

これは関ヶ原の槍場で用いた馬で、無類の駿足であったものを進上した。

 

それよりはいよいよ懇意になり、
肥後守は弟の戸川主水を秀秋卿へ遣わし、彼は備前に居住した。

程なく、秀秋は逝去して家は断絶し、その後には池田輝政が入国された。

池田家とは殊に従来より懇意であったので、

隣邑となって、いよいよよしみ、親しくなった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 仁王の如し、戸川達安

 

 

 

ごきげんよう!