その武功に寄るもの☆ | げむおた街道をゆく

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元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、

駿府詰めの面々は皆、江戸へと帰った。
 

同五年夏、台徳院殿(徳川秀忠)御上洛され、

伏見において福島左衛門(正則)の領国を召し上げる時、

その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、

中国四国の大名が芸州広島へ発向することとなり、

安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が、
三奉行として出陣した。

 

彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。

しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、

肥後守は外様の身分でありながら、
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。

この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は、
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、

私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。

これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、

重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、

江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は。」とて無事に城を渡した。

正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 仁王の如し、戸川達安

 

 

 

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