家康、伏見入城☆ | げむおた街道をゆく

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慶長4年(1599)閏3月、この十一日に、

いわゆる七将襲撃事件により石田三成が佐和山に引退している。
 

それから間もなくのこと。

黒田長政はその邸宅に、豊臣家三中老の一人、堀尾帯刀(吉晴)を招き、

徳川家康を伏見城へと入城させる工作を相談。

 

これにより堀尾吉晴は中老、そして三成を除いた四奉行の意見をたちまち取りまとめ、
中老、奉行の「総意」として、家康の伏見入場を宇喜多秀家ら大老に提案。

 

秀家らも、

「中老・奉行らの総意であれば、その通りにするのがいいだろう。」

と、これを認め、十三日、家康は伏見城へと入った。

さて、伏見城に入った徳川家康は堀尾を召して言った。
「私は、貴殿と羽柴越中守(細川忠興)両人の計らいによって、

先日の出入り(七将襲撃事件の事か)も無事に処理でき、今又伏見の城に入ることができた。

全て皆の粉骨のおかげである。
そのため、せめて今後の疎略がないように誓紙をもって誓約を成したいのだが?」

しかし堀尾、
「今回のことは全て天下の御為にしたことであり、

ここで内府(家康)の御一礼を頂き、

御誓紙を申し受けるというのは私の本意ではありません。」

とこれを辞退した。

が、十七日、堀尾邸を訪ねた家康重臣・井伊直政が取り出した、

徳川・堀尾家双方の親睦を記した血判神文を受け取る。

ここに堀尾吉晴は親徳川家康派の立場を明確に表明したと言っていいだろう。
そして堀尾吉晴はそれまでの功により、越前府中五万石を加増された。

さてそんな頃、宇喜多秀家は、

その家老・明石掃部頭(全登)を側に寄せ、こんな事を言い放った。
 

「堀尾は太閤の御恩を受け、今は中老の職にまでなったというのに、

太閤が薨去された後は他の同僚たちの前もはばから憚らず、

一心に内府の前に馬を繋いでおる!

先日の事だ、内府が伏見城に入った折に堀尾帯刀が内府からの誓紙を辞退したというのは、
ご法度を守ったことであると会津中納言(上杉景勝)が堀尾を賞賛していた。

私はそれに全く同意できず、

『ならば井伊兵部の誓紙を受納したのも、御忠功だといわれるのか?』
と言ってやった。

その場にいた者たちは皆私の言ったことに一言もなく屈服し、

『誠に言われる通りである。』
などと申していたよ。

今に見よ!
内府の計りとして、加増を受け、大坂・伏見の間で今ときめいておる堀尾は、
若年より人の知りたる武功多く、実力も兼ね備えた者であるが、

城付の五万石に己の一心を眩まされて、
既に一生の危うきを取った! 彼の将来は暗いであろう!」

この秀家の発言は後年、大坂の陣のおり、明石掃部が人に語ったことだという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 仏の茂助、堀尾吉晴

 

 

 

ごきげんよう!