上杉征伐の時、徳川家康から石田三成と北国上方の様子を注進せよ、
と命じられた堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。
時に水野忠重は吉晴と親友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。
日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。
すると突然、秀望は忠重を斬殺した。
太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。
事態に気付いた忠重の家臣達は刀を振るって、
吉晴に向かって来た。
吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、
堀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。
忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。
これを聞いて徳川秀忠は、
「吉晴と忠重の二人に限って、逆意を企てるはずがない。」
と言ったが、
日あらずして飛脚が来たり、
「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。
それには、
『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える。』
とありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです。」
と報告された。
よって吉晴の子息・忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、
家康も吉晴に御書を与えて、その傷を見舞った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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