父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、
私のことを惣兵衛に告げ口し、その仲を散々にさせたため、
あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから、
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。
それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、
伺候して、
「奉公をしたい。」
と申し上げたものの、
これを知った惣兵衛より、
「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」
と殊の外強く構いをしたため、奉公することは出来なかった。
それから私は小牧山に参った。
権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して、
『前々のごとく、召されますよう。』
と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため、
これも成らなかった。
この時、権現様は、
「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。
その頃、太閤様(羽柴秀吉)は、美濃口に出陣という沙汰にて、
惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ遣わされた。
その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、
横合いから突撃し、黒母衣で金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、
三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し門を閉めたため、討つこと出来なかった。
その時、私も二ヶ所鑓によって負傷した。
その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、
先の私の戦いを詳しく申し上げた所、
「今に始まらぬ手柄である。」
と御感なされた。
この時、傍に朝比奈左近も居たので、その様子は左近が詳しく知っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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