池田三左衛門輝政は、その寵臣である、若原右京、中村主殿をして、
諸国の牢人の中で武名才気ある者へは、常に米穀、あるいは金銀を与えて扶助し、
その数は数百人であった。
これは大坂に変が有れば、関東の出馬を待たず、播磨、備後、淡路の兵にこの牢人を加え、
自ら率いて一人でこれに当る事を欲したためであった。
それは、彼が関東より殊遇されていたため、
殊忠を致さなければならないと思っていたためである。
この為、彼は自ら婦女への愛や器物への愛玩等の費えを禁じた。
彼は、人に常に言っていた。
「今日、大国に封じられた者は礼遇にのみ篤く、手足の労を以って仕え難い。
それゆえ私はただ、多士を育んで天下の干城にならんと思い、
これによって自分の娯楽を抑損して、その財を以って武備に散ずるのだ。」
実に輝政の如きは、忠尽の将と言うべきであろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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