1527年頃のこと。
安芸船山城の城主である山中佐渡守祐成は悩んでいた。
それは同じ安芸武田家傘下の将で、隣接する三入庄を支配する熊谷信直の存在である。
勇は熊谷、智は天野と称されるほど安芸では名の知れた武将であり、
その配下にも優れた者が多く、
いずれは我が領土を熊谷に侵されるのではないかと危惧していたのであった。
事実、熊谷信直は主の武田光和に知行を増やすよう訴えており、
それが隣接する山中祐成の心を、更にざわつかせていたのである。
殺られる前に殺ってしまえ。
だが、正面からでは分が悪い。
祐成は息子の新四郎と謀って熊谷信直を闇討ちする事にした。
熊谷信直は毎晩、馬の世話をする為に城から一丁離れた馬小屋へ一人で訪れる。
この情報を得た山中親子はここで熊谷信直を討ち果たさんと決意した。
そして、その決行の日・・・。熊谷信直は突然の腹痛に倒れていた。
信直は代わりに弟・直続を、馬小屋へ行かせることにした。
この日の夜は大変寒く、直続は厚着をして顔も隠れるほど寝着を被って出かけたのであった。
そして弟の直続とは知らず襲い掛かる山中親子であったが、
厚着の為に止めを刺したかも確認は取れず、
彼らは引き返したであった。
この時、厚着が幸いして熊谷直続は一命を取り留め、城に帰って兄にこの事を報告する。
それを聞いた熊谷信直は、
「相手がそういう事をするなら、こちらも謀をもって敵を討たん。」
と、策を練った。
その後、熊谷信直は今まで以上に山中家との交流を深める事に努め、
山中家の方はこの件がバレているとは思っておらず、
熊谷家にすっかり心を許して交際に応じていた。
それから数年後、1529年ごろのことである。
熊谷家から、
「毛利が攻めてくるから、守りの為の砦を築いたので祝宴するから来られたし。」
と、招待を受けた山中親子はそれに応じ砦に赴くのであった。
そして、その宴の最中、山中親子とその配下約30名は別々に、
熊谷信直とその郎党の手により討ち取られ、命を失った。
その後、熊谷信直はすぐさま300の兵を率いて山中氏の船山城を急襲。
ほぼ無血で占拠し、山中氏の所領と、
更には主である安芸武田氏の領地も掠め取ることに成功したのであった。
主である武田光和はこれを黙認したものの、後にこの領地の件で熊谷信直が、
大内義隆、毛利元就と密約を結び熊谷の領有を認めさせた事が露見、
また、武田光和の側室であった熊谷信直の妹が兄の一存で離縁させられ、
他家に再嫁させられるに及び、かつては水魚の仲と言われた、
主従の仲は完全に破綻。
横川表の戦いが勃発するに至るのであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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