永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、
富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して、
自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、
しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと、
言われてしまうと考えた。
そこで、尼子方の秋上伊織に、使者を出して申し述べた。
『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、
蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え、
五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。
しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、
芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。
そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。
そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って、
旗を揚げるであろう。』
これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、
鹿介、
「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」
と、急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、
疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて、
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。
そこでかねての約束を信じ油断して待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は、
「方便にかかった。」
と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて想いのままに射させた所、
敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、
引き色が見えた所で、隆重は、
「時分良し!」
と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。
山中鹿介らは、天野隆重に謀られ、
諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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