明智光秀が謀反した後、秀吉は姫路から出陣してきたので、
池田恒興は兵庫で秀吉を出迎えた。
先公(信長)の不慮の傷害に互いに涙をこらえられずにいたが、
力を合わせて光秀を討つことを決め、秀吉と昵懇の間柄となるために、
秀次を恒興の婿にし、次男の輝政は秀吉の養子にすることを約束した。
秀吉が尼崎へ着陣すると、池田父子、中川(清秀)、高山(右近)、
惟住(丹羽長秀)らで軍評議があった。
恒興は秀吉と共に剃髪し、勝入と号し、
「さて一番合戦は、勝入仕るべし。」
と言うのを秀吉が聞いて、
「先公がいらっしゃらずとも、先公の御法に任せられよ。」
と言ったので、勝入はそれに従い、
「どのようにでも。」
と申された。
そういう訳で高山と中川が一番を争い、同士討ちのようになったところで、
秀吉が仲裁をして、高山が一番合戦、中川が二番合戦となった。
天神馬場まで軍勢を押し詰めて、すぐ合戦しようという話にもなったが、
御弔合戦ということで、信孝を待つことになった。
翌日、信孝の手勢が見えたので秀吉と池田で出迎え、互いに涙を流した。
段々軍勢を山崎表へ押し出し、中筋正面は高山、堀久太郎。
南の方の川端は、池田勝入父子。
天王山の手は、
堀尾茂助、木下秀長、同勘解由、黒田官兵衛、神子田正治、前野長康。
それより後陣も、雲霞のごとく連なった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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