長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は、
額田の北、犬山に本陣を置く。
犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。
犬山から額田までは5里程あった。
勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、
「私が良き人数を率いて三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにして、
その妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできますまい。」
と申した。
これに太閤は曰く、
「思うようにはならん。」
として許さなかった。
しかし勝入は、次の日また赴き、固く乞うて曰く、
「今現在において、これ以上の謀はありません。」
と申し、太閤はこれを許した。
勝入父子は共に出発した。
しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、
まず岩崎に赴こうとする。
勝入は、道すがらの百姓を案内者として、
「勝利したならば、良くしてやろう。」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。
犬山と岩崎の間に長久手あり。
勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って、勝入が来るのを待つ。
家康は、案内者の百姓等に、
「この度、勝利を得れば、3年作り取りにさせよう。」
と言った。
勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、
「勝入の先手は、すぐに岩崎に取り掛かり、城を攻め破った。」
との報告があった。
大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢を皆、行き過ごし、
勝入本陣に取り掛かった。
安藤帯刀(直次)は、先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。
それが勝入とは知らずに、帯刀は、
「坊主首を取っては面目がない。」
と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。
その後に永井右近(直勝)が来て、死首をやすやすと取り、後まで功を誇ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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