我が子と相争う☆ | げむおた街道をゆく

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謀聖と謳われた、戦国初期の雄・尼子経久。
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。

父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝に、

その文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
 

次男、国久。

父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として、

武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に、
その武名を轟かすも、最期は甥・晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、

新興勢力の毛利元就の謀略により、
甥・晴久に、嫡男・誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。

彼は父・経久が大内義興に従い上洛した際、

山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、

父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り、
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。

尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、

独立した国人衆と相対する塩冶興久の財政的負担と折衝の為の辛苦は、

尼子一族の中でも大きな物であった。

興久は、父・経久と腹心の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、

秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで、

父・経久に対しての反乱を起こす。
 

中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。

が、その後戦況は一変する。
 

塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は、

両者共倒れを狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
 

これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり、

妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
 

しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子・清久が継ぐものの、大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
 

いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫・晴久が家督を継いだ後に、

国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。

隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、

一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 雲州の狼、尼子経久

 

 

 

ごきげんよう!