出雲守護代を追われ、一時期勢力を減退させた尼子経久だが、
長享元年(1486)頃には、その勢力を回復していたと考えられる。
しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、
彼らは経久の威令に従おうとはしなかった。
しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った。
「私は三澤を騙すぞ!
汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」
そうして詳細を説明すると、山中は、「御諚承り候。」と、これに同意した。
さて、この頃、経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。
山中はこれを喧嘩のようにして斬り殺し、三澤の元へと逐電した。
経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、
三澤も彼を不憫に思い、召し使った。
そして2年ほどが経った。
「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」
山中は、三澤に向かってこんな事を言った。
「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、
経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し、牢に入れてしまいました。
侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。
願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。
夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。
ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」
このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、
野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は、「謀略、成れり。」と経久にありのまま報告する。
報告を聞いた経久は、「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。
山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中、
「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」
そう言って一人出ていった。
残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!
寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに、「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」
と大いに驚き、既に逃げ腰になっていたが、
流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、
みな一箇所に固まりひしひしと撤退していった。
が、ここでまた思いもよらぬことに、
今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち、
「これは山中に騙されたのだ!
こうなったからにはただ一方を打ち破って、
落ち延びるしか無い!」
と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい、
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、
谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。
そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は、
真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ、
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、
野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして、
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、
三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。
かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から、
「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。
これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。
経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、
三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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