尼子経久は、もともと出雲の国の富田の地で、七百貫を領していた。
出雲の国は近江の佐々木氏の領国であり、佐々木高詮の時に、
経久の祖父・持久を守護代として、出雲に送った。
この持久、そしてその子・清定と二代にわたって守護代に任じ、
国務を司り租税を近江へ送っていたのだが、
さらにその子・経久の代となって、経久がまだ若く又四郎といった頃に、
近江の佐々木氏の指示に従わず、
富田とその近郊の地を奪い、また出雲の国の武士達を攻め、従えようとした。
守護佐々木家の六角定頼は、これに大いに怒り、
出雲の国侍に命じて経久を攻め追放させると、
代わりに塩冶掃部助をもって、出雲の守護代とした。
経久は無念であったが、諸国を放浪し、
ついに食うにも事欠くとある山寺で食うために僧形となり、
修行僧に混じって暮らしていた。
経久は何とかして富田の城を奪い返して本懐を遂げたいと思うものの、
家臣達は皆その妻子を養うため、
近江の六角氏に仕えており、出雲に残っているものは山中一族だけであった。
山中を頼るべしとついに秘かに出雲に入ると山中の住まいを訪ねた。
山中は経久を見ると急いで中へ招き入れたが、
色は黒くやけ、やせ細り、昔の面影もほとんど残っていない、
経久の姿に涙を流した。
ささやかな食事と濁り酒を前に、経久は涙を流して山中をかき口説いた。
「何としても富田の城を攻めて塩冶を討ち取り、本望を遂げたい。
もし昔のよしみを忘れていなければ、どうか我に力を貸してはくれないか?」と。
山中も昔の義理は忘れがたくもあった。
「仰せ、畏まりました。」
と諒承すると、やがて一族と語らい17人の一味同志を得ることができた。
さて、しかし塩冶は国の守護代として多くの兵を抱え、威もさかんである。
容易に討つことはできない。
思案の末、経久は、河原者(祭や芸事を行う身分の低いものたち)の賀麻党の頭を召し寄せ、
言った。
「汝も知るごとく、我、当国を追い出され、耐え難い思いをしている。
何としても塩冶を討って遺恨を晴らしたいのだ。
それに付いて、汝に頼みたいことがある。
もし我が本望を遂げたあかつきには、褒賞は望みのままに取らす。」
賀麻の頭は、平伏して答えた。
「恩のある何百の侍を差し置いて私どもの如き身分賤しき者を頼りにして頂けるとは、
これほどの名誉はございません。
この上は、たとえこの身も一族をも亡ぼそうとも恐れはいたしません。
何なりと、御指図ください。」
経久は、大いに喜び、言った。
「よし、それならば汝らは正月には富田の城の二の丸で、
例年卯の上刻から千寿万歳の舞を行っているが、
来年の正月は時間を早め、早朝寅の上刻に舞を始めるのだ。
そうすれば、本丸の者共も二の丸へ出てきて舞を見るだろう。
我々は城の搦手から忍び込んでおいて、
方々へ火をかけながら本丸へ打って入る。
その声を合図にして、汝らは大手より切り込んでくるのだ。
こうして前後から攻め合わせれば、城を乗っ取ることは容易いぞ。」
賀麻の頭は、これを了解して立ち帰った。
さて文明17年大晦日。
経久と山中一党の17人、そして昔の恩義を忘れぬ譜代の郎党56人、
夜中秘かに塀を乗り越え大手の合図を待った。
明けて早暁、賀麻の一族70人ばかり城の門外より太鼓を打ちながら千寿万歳の舞を始めた。
城中の者たちは今年は例年より早く万歳の舞が入ってきたぞ! 急げ!
とばかりに皆して二の丸の大庭に集まり見物を始めた。
ここで経久以下、所々に火をかけ火事だ火事だと叫びまわる。
見物の城兵たちは慌てふためくが、
そこに賀麻の一党が烏帽子、舞服を脱ぎ捨てると太刀を構えて切り伏せる。
経久らも賀麻一党も散々に奮闘し、
ついに塩冶を討ち取ると城兵は散々に城を落ちていった。
尼子経久、ついに月山富田城を乗っ取り730人ばかりの首をとり、
多年の鬱憤を散じることができたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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