茶の湯☆ | げむおた街道をゆく

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中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、

この御家が滅んだ様には、こんな事が有った。

 

それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、

堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、

御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が、

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、

四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、

茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄は、この如くである!」

と言い放った。

 

これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、

また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 大内文化の爛熟、大内義隆

 

 

 

ごきげんよう!