大内義隆は、男子がいなかったため、
一条房冬の息子で姉の子にあたる、恒持を養子とした。
義隆は、その養子のために、将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を受け、
「大内晴持」に改名させた。
晴持は大内家跡継ぎとされていたが、
初陣の月山富田城攻めで、大内軍が大敗をしてしまった為、
晴持は海路から撤退をした。
しかし、晴持の乗っている小船に多数の兵が助けを求めて来た為に小船は沈み、
甲冑を着ていた晴持は溺死してしまった。
一説には一旦は蘇生するも間もなく死んだとある。
義隆は初陣で死んだこの世継の死に悲嘆し、
晴持を供養する時に足利義晴に頼み今度は「義」の字を与え「大内義房」として供養した。
死んだ養子に将軍の偏諱を与えたのである。
そして、義隆は政治を評定衆と呼ばれる家臣団に委ね、
大内家は次第に衰退してしまう。
晴持の死は、義隆の人間性を変え、
その後の大内家の命運を大きく変えてしまったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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