慶長3年正月4日、小早川秀秋は、蔚山城の後巻にて真っ先に進み、
秀秋自身の手で騎馬武者13騎を斬って落とし、
軍全体で一万三千二百三十八の首を取り、太閤秀吉に献じた。
この使者は同月24日伏見の城に到着した。
太閤は合戦の様子を聞いて大変に機嫌を良くした。
ところがこの時、石田治部少輔三成が密かに申し上げた。
「金吾殿のお振る舞い、誠に雄々しくも聞こえます。
さりながら、既に上様の御代官として向かわれた御身が、
自ら釜山の城を出て深く敵の中に入り戦われたというのは、あまりに軽率に存じます。
敵がもしこの隙を伺って、釜山城を攻め取ってしまえば、
本朝との通路は最早自由になりません。
今後は、かかる振る舞いは然るべかざる旨を仰せ下されるべきでしょう。」
これに太閤も尤もと思われ、秀秋の功を賞することはなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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