慶長3年4月4日、小早川秀秋は、朝鮮より大坂に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。
秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。
これを聞いた秀吉は言った。
「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って、軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」
秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた。
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。
追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」
しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った。
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。
ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。
そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの使者として、
尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた。
『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、
また先程申した事も甚だ奇怪の至りであった。
この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように。』
秀秋は激怒し、
「やあ尼よ! この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!
この生命あらん限り、筑前を返すつもりはない!
よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」
そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた。
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」
孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した。
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。
その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は、
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。
家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、
家老の杉原、山口を密かに呼んで言った。
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」
そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。
そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。
それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり、
「どうしてそのように毎日参るのか?」
と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、
その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、
このようにしております。」
そう答え、その後も毎日参上した。
秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし、
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」
家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、
杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、
饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。
秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
「今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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