秀吉の死後、いわゆる形見分けがおこなわれた。
品定めは前田利家の伏見邸において、石田三成を初めとする五奉行によってなされた。
当時の記録によると、徳川家康には「遠浦帰帆」の絵と金子三百枚。
前田利家には政宗の刀と金子三百枚。
石田三成には吉光の刀と金子五十枚。
加藤清正には金子三十枚 などとある。
このほか広く大名、旗本に加え直江兼継のような陪臣、山名禅高のような御伽衆まで、
遺品を賜った。
しかしそんな中、意外な人物が形見分けの選から除外されていた。
黒田如水と吉川広家である。
如水に関しては息子の長政が賜っている事を、
隠居の如水を除外した理由にしたのかもしれないが、
播州以来の長年の秀吉との関係、その働きを思えばどうにも腑に落ちないことでもある。
如水としては、いよいよ奉行たちに豊臣家から遠ざけられたと思ってもおかしくはない。
一方、広家は、すぐさま三成たちに問い詰めた。
慌てた三成達は、
「たまたま形見分けに入れ忘れた。」
と、後日、刀が送られる事になったが、仮にも毛利家の重鎮を入れ忘れるだろうか?
少なくとも誇りを傷つけられたとは思っただろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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