吉川広家の家臣に、横道権之丞と言う者があった。
さて、天正15年(1587)の、肥後国人一揆において、
吉川広家は黒田孝高・長政親子らと共に、
城井鎮房の籠る城井谷城を攻めていたが、城井方のゲリラ攻撃に長政が不覚を取るなど、
大いに苦戦していた。
そこで広家、孝高・長政親子は相談をし、城井鎮房に対し和議を提案することとし、
その使者を吉川広家より出すことと決めた。
広家はこの使いを、横道権之丞に命じ、城井鎮房に対し、
『あなたが黒田に対して何の遺恨もないのに防戦に及ぶことは、
秀吉公の意に逆らう行為です。
早々に和睦を受け入れ、黒田親子の下知に従うのが、最も良い選択です。
過去の戦闘の罪は、この広家が善きように処理します。
秀吉公より御赦免いただき、またあなたの本領が相違無く黒田親子より渡されるように、
私から言っておきます。』
そう言い伝えるよう命じた。
ところが権之丞は、この使いに直ぐに向かおうとせず、日が暮れ夜に入ってから、
大松明に火を付けさせ、
少しの忍ぶ景色もなくテクテクと歩いて行き、城の近くまで来ると、
「吉川蔵人頭広家の使いである!」
と、頻りに呼びかけたので、これを聞いた城中の者たちはすぐに城井鎮房に知らせた。
城井鎮房は人を出して権之丞に目的を尋ねると、彼は広家に言われた内容を伝えた。
これを聞いた城井鎮房は広家の提案した和議条件に同意し、
直ぐ様降伏して黒田親子の手に属した。
まあ、この和議が後にどす黒い事態を起こすのだが…。
ともかくも横道権之丞は見事大事の使者に成功したのである。
その後、ある人が横道権之丞に、この時のことを聞いてきた。
「あなたはどうして、日が暮れてから城に向かったのですが?」
これに権之丞答えて、
「こういう使いに、白昼うかうかと行っては、もし伏兵などに取り巻かれた場合、
自分は和平の使者だ、なんて自分の説明をしても、
雄に逸った若者なんかは、『そう言って騙す気だな!』
なんて言ってきて、確認も無しに討たれる事もあるんだよ。
だからわざと夜になって、松明を燃やし、何も隠さない形で行ったのさ。
そういうふうに行くとね、敵も『あれはなんの用がある使いだろう?』と考えて、
うかつに討ち取ったりはしないものなのさ。
俺はそういうふうに考えて、日が暮れてから城に向かったんだよ。」
と、その様に語ったそうだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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