天正10年(1582)6月。
備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、
秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。
秀吉からの和議の条件は以下の通り。
・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
・清水宗治には切腹を仰せ付けられること
「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、
毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが出来ます。」
安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。
毛利の現状からすれば上々の和議内容であろう。
しかし輝元は、これに断固として反対した。
「国分け(領土割譲)の事はともかく、
当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!
断じて罷りならん!」
安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。
ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し、
内々にこう説得した。
「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。
それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」
安国寺、答える。
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」
それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、
これまでの和睦交渉の経緯を、ありのままに伝えた。
宗治は、聞き終わると、
「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。
こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、
私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。
安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。
御両三殿の御意に背いても切腹する。
そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、
毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」
安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し、
「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう。」
と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!