小早川隆景公が、分国を巡廻なさっていた際、
高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)について、
いよいよ信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、
高松の城普請など仰せ付けになった。
その他、備中備前の境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。
このように大事の境目を預け置かれたのは、
隆景公が、清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに、
隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。
その後、天正十年卯月(四月)中旬、
備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、
翌日、備中の宮内と申す所に、蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が、
使いとして訪れ、清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し、
織田信長公の御誓紙を以て、
『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』
と仰せ聞かせた。
この時、長左衛門はこう返答した。
「辱き次第、冥加至極の御意であります。
ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を、
預け置かれております。
であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げると、
お思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、
そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、
信長公に対する以ての外の御無礼になるかと存じ奉ります。
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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