備中国の奥郡半国は、石川左衛門佐殿が旗頭であり、
その下に一郡半郡の大将である、長谷川、清水、林、鳥越、尾石、上原、中島、
などといった、歴々の侍が持ち固め、隣国からの侵入を防いでいた。
また同国奥郡の内を、須々木、秋山、その他にて持ち固めていた。
ところが、石川左衛門佐殿に実子がなかったため、
奥郡の内、須々木、秋山の一家より養子を取り、
これに高松城を渡して後に相果てた。
この養子は筑前守と申したが、これも若い頃に相果て、男子が無かったため、
高松城は城主の居ない事態となった。
そこで旗下の者達が内談し、筋目の儀である事から、
須々木か秋山と談合して城主を定めようと申していた。
このような中、清水長左衛門(宗治)は、
高山という城に在ったが、彼は、
「侘所の者を、我々の旗頭と認めるのは心外な事である。願わくば私が下知をしたい。」
と考えていた。
この時、長谷川と申す者も、高松城主と成ることを望んでおり、
どうなるのか心許ない状況であった。
そのうちに、長谷川方の内談として、
「清水長左衛門も高松城主を望んでいると伝え聞く、
とにかく先手を越されては厄介なので、折を見て長左衛門を滅ぼそう。」
という話が伝え聞こえた。
永禄八年八朔の出仕の日、諸侍が残らず登城した時、
清水長左衛門は、この長谷川を手討ちにし、旗下の衆に、
「今日より高松城主は私に定まった! 野心の衆が有ったため只今存分にした!」
と申し渡した所、これに否を唱える者は一人もなく、
「そういう事ならば、人質を申し受ける。」
と、残りの者達より四、五人の人質を城中に取り込み、
それより様々に下知を加え、以降国中が固まったという。
その後、毛利家が各地で強盛となり、備中奥郡についても小早川隆景公の御旗下となった。
ところがこれに関して、須々木、秋山らが手切れを成した。
この時は因幡国鳥取籠城の時期で、
清水長左衛門はこれに出陣していたため留守をしており、
息子の才太郎は当時八歳であったが、高松城下の小川で、
五、八人の体にて遊びに出ていた所に、須々木、秋山より、
忍びの者数人が密かに高松城近辺に派遣されており、
この時才太郎を拐い人質に取って帰った。
長左衛門が留守でもあり、取り返す手段もなく、城の留守居より因幡国へ注進がなされた。
これを隆景公に申し上げ、清水長左衛門は帰国して、
須々木、秋山と和平の手を遣わしこれを調え、
才太郎の兄弟を須々木の娘へ遣わすという事で、才太郎を取り返した。
そして又すぐに因幡へと出陣した。
その後、因幡は毛利家の御利運となり、帰陣の際に備中奥郡も支配下に置きたいとの、
隆景公より御談合があり、
須々木、秋山を、「舅入の祝いである。」として饗し、高松へ呼び寄せた所を討ち果たし、
これにて異議なく奥郡も隆景公が手に入れられたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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