関ケ原☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の退き口と言えば、島津の名が真っ先に上がるが、

この毛利秀元も島津ほどの大胆さや知名度はないにせよ、
見事関ヶ原から退却せしめたのである。

最初は他の毛利勢と共に、南宮山に陣取っていた毛利秀元だったが、
合戦が終わると予め東軍に内応していた吉川広家と福原広俊はさっさと山を降りてしまった。
取り残された秀元も山を降り退却を始めた。

目指すは養父・輝元のいる大阪城である。
 

秀元は、あえて北国脇往還を進み、東軍の包囲する三成の居城・佐和山城付近を通った。
すかさず東軍が攻撃してくるが、秀元はこれを振り切り、

ついには京の手前、瀬田までたどり着いた。

しかし、ここで秀元に報告に来るものが。
「前方、瀬田の橋にて、退却してきたと見られる将兵たちが殺到しており、

混乱を起こしております。」
瀬田の橋さえ渡ればもはや大坂方の領域である。
しかし、こんなところで混乱に巻き込まれては埒が明かない。
 

そこで秀元は騒動が収まるまで全軍この場で野営することにした。
このとき秀元は大坂城で輝元とともに籠城し、東軍と一戦交える覚悟であったという。

しばらくし、野営地で食事をとっていた秀元であるが、思わぬ急報が入る。
徳川方、福島、黒田の軍勢がこちらに向かっているという。
 

この先、大坂城での決戦を考えていた秀元は思案した。
ここで、闘っても無駄に兵を失うだけ。

友軍のいないこちら側が圧倒的に不利だからだ。
 

秀元がなおも迷っていると、黒田方からの使者がやってきたらしい。
「黒田どのより使者が参りまして、殿に来陣致すようになどと要求してきております。」
これを聞き秀元の陣がどよめいた。
「体よく殿をおびき寄せ、捕らえようという魂胆か!」
「返答次第によっては殿を切り殺すつもりであろう。」
 

様々な憶測が飛んだが、いずれも「行ってはなりませぬ。」という結論で一致していた。
 

しかし、秀元は、「さようか、されば参ろう。」と承知してしまった。
「なりませぬぞ、殿! これは罠に決まっておりまする!」
なおも反対する家臣たちであったが、秀元は部下数名のみを連れさっさと行ってしまった。

 

黒田の陣には福島正則も一緒にいた。
彼らの口上はこうであった。
「秀元どの、悪いことは申さぬ。今からでも徳川方につかれよ。

これは、そなたの養父・輝元どののためでもござるぞ。」
 

しかし、秀元は即座にこれを拒絶した。
「わしは、輝元が陣代じゃ。

輝元が大坂にいるのに、陣代のわしがどうして寝返ることができようか。

かくなった以上は、早急に大坂まで引き上げるのみにござる。」
こう言うと、秀元は立ち上がった。

 

そして、「では。」と言うと、突然黒田長政の手を握り、

そのままひきずるようにして陣幕の外に出た。
 

乗ってきた馬の前まで来ると、長政の手を離して、馬にまたがり、
「では御免。」
と一言言って、来るときと同様にさっさと黒田陣を離れてしまった。
 

驚いて呆然となってしまったのは、黒田、福島の二人であった。

黒田は自分がひきずられるほどの秀元の膂力に驚いたし、
福島もその気迫に圧倒されて手を出せなかった。
黒田が半ば人質のようにされて、強制的に秀元を見送ることになったのである。
結局、秀元の投降勧誘には失敗した。

この後、無事に大坂城に入場し立花宗茂と共に徹底抗戦を主張するが、

それが叶えられることはなかった。
関ヶ原の戦場では空弁当など不名誉な逸話を残してしまった秀元であったが、
実際は、度胸も据わった勇将だったのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 宰相殿の空弁当、毛利秀元

 

 

 

ごきげんよう!